アンコールワットで会ったミチエという女性と一緒に夕食に行った.昨日と同じところ.
彼女は一人旅だけど,旅先で一人でいるのはイヤらしい.変わった人だ.そして日本人っぽい人を見かけたら,片っ端から声をかけているらしい.変わった人だ.きっと私とは一人旅の定義が違うのだろう.
彼女にとって一人旅とは,旅先で一人旅の日本人と仲良くなることのようだ.沖縄で友達になった人とは今でも親しい友達で,その感覚を求めて旅をしているということだ.外国ではそこまで仲良くなれないから,最近はあまり一人旅をしなくなったと言っていた.
私がゆっくりとした旅をしていて,今回の旅の目的を『アンコールワットで昼寝をすること』にしたと言ったら,驚かれた.寂しくない? と聞かれたが,それは日本にいたって同じだ. この彼女とは最終日にもう一度会う約束をしていたが,彼女のツアーが長引いたのだろうか.待ち合わせ場所に彼女は現れなかった.
さて私は一人で来て,そこに何があったのだろう.特別に誰かと仲良くなることを求めに来たのではない. 道ゆく人や,道中で一緒になった人,隣で写真を撮っていた人,自転車で同じところへ向かった人,そんな人々と少しだけ会話をする.視線が合って「また会ったな」なんて眼で話す.
誰にも時間を束縛されずに過ごすこと,行きたいところに行きたいように行くこと,それが一人旅…? 何か違う.確かにそれは一人だからこその部分なのだが,要素のただ一部である. 他人に合わせることなく,自分一人が現地に飛び込むことで,ホームとアウェイという感覚ではなく,自分がアウェイの一部になる.これは一人旅と云うものの 1つの大きな要素であったと思う.でもそれこそが醍醐味というのならば,住めばいいじゃん,という気もするし…難しい.
じゃあ何なんだ? と考えてみて,うまく言葉にできない.帰国してからも感覚を言葉にしたくて悶々としていた.
ただ一人でいるのであれば,それは日本にいたって同じことである.何が違うのかは,帰国してみて感じるものが大きかった.そうして行き着いた上記の言葉は,まだ言い得ていない気はしているが.
見知らぬ土地に行って,そこにあるもの全てに自分が向き合う.そして帰ってきて振り返ってみると,あの期間はあの土地に自分がいた,と実感する.
誰かと一緒だったのなら,その土地とだけ向き合っていたのではなく,その"誰か"とも向き合う時間があったはずだ.一緒に行った人でなくて現地で会った人だとしても,日本人と日本語で話したとしたら,"日本"を持って行ったのと同じであるような気がして,"その土地"が薄れてしまう.
100パーセントその土地と自分が一緒にいたという感覚が,私が感じた一人旅か.
こう書いていて,現地で日本人に会ったら無視するかというと,そういうわけでもない.そこに日本人がいるということも"その国の今"の姿であり,偽りではない.それは瞬間ごとに変わっていく時の流れの一瞬であり,自分がその一瞬に張り付く必要はない. 観光地であれば観光客はいる.それもその国の姿であり,その国にとっては収入源であり,欠かせないものかもしれない.そういうのも含めて,その土地である.
たぶんずっと旅を続けている人とは感覚が違うと思う.私には帰りたい場所がある.日本がベースにある.旅をしている期間はほんの僅かだ. 私のイメージする一人旅は,スナフキンの生き方かもしれない.私自身はそこまで到達していないけど,旅人であるスナフキンはムーミン谷に毎年訪れる.でも定住はしていない.そこまで行けば感覚は違うのかな.憧れるな,スナフキン.
書いているとわからなくなってくるが,自分のつかんだ感覚は書けるだけ書いたつもりなので,今はここで止めておこう.
次へ/戻る